ゲイ三界に家なし

田舎暮らし30代ゲイの戯言

ゲイになった理由を考える

私はなぜゲイになってしまったのだろうか?

事あるごとに心の中を占領し、自分自身の存在意義を問うてくる昔からの疑問が、またしても燻りはじめてきた。

きっかけは日常のふとした瞬間に潜んでいる。

例えば年賀状にプリントされたノンケ友人家族の幸せそうな写真を見た時。

あるいは職場の飲み会で既婚者の多いテーブルに座ってしまい、夫婦や子供の話題で盛り上がる中、ゲイの私は話すことも特になく、所在なさを感じる時。

「普通」に女性と付き合い、「普通」に結婚し、「普通」に子供を生み、「普通」に家を買い、「普通」に子供を大学まで卒業させ、そしてその子供もこれらの「普通」を繰り返す。

この「普通」と言う言葉が呪詛のように私を縛り、「普通」になれなかった自分自身への苛立ちや劣等感を募らせ、自らを薄暗い自己否定の穴へと導いて行く。

辞書によると「普通」の対義語は「異常」、普通を手に入れられない私は「異常者」として生きるより他ない。

 

私の異常は、既に幼稚園児の頃には芽生えていた。いつも遊ぶのは女の子ばかり。男の子が夢中になる戦隊ヒーローやドラゴンボールには目もくれず、美少女仮面ポワトリンセーラームーンに憧れていた。今振り返れば、あの頃、私は自分自身のことを「女の子」と認識していたと思う。

 

もう一つ、幼稚園の頃には、私の異常が生じていたことをを物語るエピソードがある。

ある時、幼稚園の中で、好きな子を教え合うムーブメントの様なものがあった。

当然、男の子は女の子の名前を言い、女の子は男の子の名前を言う。

当時の私は、仲の良い友達はみんな好きなのになぁと心の中では思いつつ、ここで告白を求められているのは、特別な「好き」であることを漠然と理解して、1人の女の子の名前を上げた。

その子の名前はマリアちゃん。聖母の名を持つ女の子。華奢で可愛らしいツインテールをした女の子。

彼女に対する気持ちは恋愛感情の芽生えのようなものでは無かった。マリアという名を持つ、可憐な女の子への憧憬であった。

 

遠い昔の記憶を漁る中で、もう1つ気づいたことがある。幼児期、私は特に男性が好きだったわけではなかった。

ゲイの友人と話していると、幼い頃から既に男性に対する興味を抱いていたという話を聞いたりするが、少なくとも私は幼稚園時代に回りの男の子たちに対して興味や好意を抱いたことはなかった。

粗野で乱暴で園庭を駆け回る男の子たちは、自分には理解し難い別の生き物のように捉えていた。

女の子の友人の名前は記憶に残っているが、男の子の名前は1人も浮かんでは来ない。

そうか、やはりあの頃の私はただの女の子だったのだ。

それがいつしか、女の子であることを諦めたものの、性的対象は男になっていた。

また、最初の問いに立ち返ってしまう。なぜ私はゲイになったのか…

 

遺伝子と同性愛に関する面白い記事を見つけた。

https://www.bbc.com/japanese/49520044

この記事によると、遺伝子が影響するかもしれない同性愛行動は、8~25%存在するものの、同性愛をつかさどる特定の遺伝子はない、つまりこの変異があればゲイになる、という遺伝子は存在しないらしいのだ。  

「この研究が示すように、同性愛者になるかどうかは遺伝子で決まるものではない。それと同時に、同性愛の性的指向は、個人が生来の人格として持って生まれる不可分の部分だということは、否定されない」というなんだか歯切れの悪い結論が、現段階での科学が導き出した結論らしい。

遺伝子の影響はない訳では無いが、同性愛かどうかを決めるのは、後天的な、環境によるところが大きいのだろう。

今回、もっとも古い記憶を手繰り寄せて見えてきたものは、ゲイ(同性愛)であるか否かの前に、私は性自認の問題があったこと。

そしておそらく、ゲイとしての目覚めはもう少し後、思春期なってからだったということ。

私はなぜゲイになってしまったのだろうか?という問に対しては、思春期の記憶も掘り起こすしかないのだろうが、それはまた別の機会に。